外山正一のアメリカ行は森有礼の力で、森が明治3年わずか23歳にして最初の米国公使に任ぜられて行くとき書記として外山は随行したからです。
森は外山より1歳の先輩であるにすぎませんが、これより先イギリス留学の際2人は知り合っていたのです。
外山正一は嘉永元年(1848)旧幕臣外山忠兵衛を父として江戸小石川柳町に生れました。
幼名は捨八。
文久元年(1861)、13歳のとき蕃書調所(今で言う石川遼 英会話のようなもの)に入って英語を習っています。
蕃書調所はもと徳川幕府が文化8年(1811)、はじめて浅草天文台に設置した「蛮書和解御用」という翻訳局を安政2年(1855)、ペリー来航(1853)の後をうけて、洋学所として独立させます。
翌安政3年その洋学所を蕃書調所と改称したものです。
この蕃書調所は九段坂に設けられたもので、文久2年(1862)には一つ橋に移転して洋書調所、翌3年には開成所と改称しました。
これが明治6年東京開成学校、やがて大学南校、明治10年東京大学、明治19年帝国大学へと発展することになるわけです。
桜井役氏の『日本英語教育史稿』には、文久元年(1861)12月、外山捨八「英学世話心得」として、さらに慶応3年(1867)には外山捨八「教授手伝並出役」として外山正一がその幼名の下に出て来ます。
また慶応2年4月8日には幕府も遂に海外留学生を許します。
みずからも箕作奎吾、外山正一、林董、箕作大六(後の菊池大麓)、中村敬宇(正直)ら14名をイギリスに留学させたのです。
このとき外山正一は18歳でした。