国内市場をよみがえらせ朝鮮戦争後の景気後退に終止符を打つ鍵は、行政指導や緊縮財政による新しい攻撃的な作戦ではなく、一連の大幅の減税を実施することであると主張しました。


まったくサプライ・サイダーの立場にたって実施された石橋の減税は、個人の所得と貯蓄に的をしぼって行われました。


法人税率も引下げられてはいましたが、1950年代末までは税負担の相対的な割合は高かったのです。


石橋の最初の減税は1955年でした。


利子課税を廃止し、配当に対する実効税率を3分の1以上。


つまり11パーセントから7パーセントに引下げ、ほとんどの個人課税率を約10パーセント引下げました。


それと対照的に、法人税は42パーセントから40パーセントに引下げられたに過ぎません。


1956年、税による歳入は15パーセント近く増え、貯蓄率は20パーセント以上も急増。


個人所得の31・8パーセントという戦後最高の記録に達しました。


1956年の小規模な減税と税法改正の後、石橋は12月に首相となります。


個人所得の減税と道路その他の必要な基幹設備の政府支出の増大を一括した革命的な財政政策を約束しました。


1957年、石橋はそのほとんどを発足させることに成功したのです。


1950年の減税は、朝鮮戦争の物資調達とあいまって、日本を停滞状態から引上げ、政府の歳入を増加させました。


しかし石橋が1954年末に通産省に復帰した時には、経済は1年におよぶ景気後退の苦境にありました。


鳩山内閣の通産大臣として石橋は、戦時中壊滅状態にあった日本の鉄鋼業界の復活を熱心に主張したこと・・・


そして、一部アメリカ人によって押付けられた日本経済の解決策を強固に退けたことでよく知られています。


しかし通産省時代の石橋のユニークで決定的な貢献は、その後の20年聞にわたる経済の高度成長を始動させることになった広範な新しい政策の輪郭を作りあげたことです。


通産次官で知性派の指導者平井富三郎は、


「石橋氏は他の立案者全員が見逃していた理論の系統化に貢献した」


・・・と言っています。


その名の示すように国際通商と産業の所管機関として、通商産業省とその前身の機関は、その援助と指導による輸出主導型成長を望ましいものと考えていました。


しかし石橋は輸出の成功の鍵は政府の助成金、保証あるいはその他の海外向け振興手段ではなく、規模の経済性を図り国内経済での経験を積むことによって低コストの生産者の地位を確立することだと主張しました。

戦後第一次吉田内閣の大蔵大臣として、彼はインフレーションをくいとめるための耐乏計画を非難してアメリカ側と深刻なトラブルを引き起しました。


現在の供給側重視派のように、石橋は日本の危機は基本的にはインフレーションあるいは産業に流入する資金の過剰から派生したものではなく、生産の不足から生じたもの・・・


労働と工場が使用されないことから生まれた問題だと主張しました。


「唯一の解決策は生産を助長することだ」


・・・と彼は言いました。


しかし、石橋は努力の甲斐なく職を解かれました。


しかし、シカゴの銀行家ジョセブ・ドッジが主張した金融引締め政策と、アメリカの学界によって作られた当時の税制下では、銀行の倒産や産業の停滞がもたらされると彼は予測。


その正しさは実証されたのです。


石橋の規制されない資金の創出とインフレーションに対する考えは手ぬるすぎたかもしれません。


しかし日本の抱えている問題の本質については彼の考えは正しかったのです。


1950年にいたっても、日本は中程度の所得に対する85パーセントの税率、GNPの24パーセントの税負担、慢性的なインフレーションに悩まされていました。

所得税率引下げの補償として設計された付加価値税および社会保障関係の大幅な増税は、企業家や小企業に破滅的な影響を及ぼしました。


イギリスを西欧一の失業率に追込み、同時にそれに対する福祉の負担が増えて、使用できる歳入の額が減るという結果になりました。


それでも、サッチャーは断固として所得税をあるべき方向に向けました。


そして1980年代半ばに台頭し始めたそれまでより企業家の活躍できるイギリス経済の基礎を作ったのです。


また実質的な個人所得減税、ことに最高課税区分と投資所得に対する減税は、政府の歳入に何の負担もかけることなくイギリスにおける企業の画期的な回生を助長することができました。


そのような政策がもたらす数々の可能性をみごとに実証しているのが戦後日本の経済についての最高の予言者の物語です。エグゼクティブトレードによると、1954年12月、日本経済の高度成長の開始段階で、この国の通商産業省(MITI)の指導者となったのが、日本の企業家の束縛を解く諸政策を定めた人物です。


その人物とは石橋湛山です。


多くの管理者には、重要な作業責任があります。


また、会社が管理者に管理だけをやらしておけないこともあるでしょう。


しかし、あなたが人を使って成果をあげることに少しでも責任を感じているなら、管理することと作業をすることをはっきり区別できることが肝腎ではないでしょうか。


管理するというのは、人を使って自分の力を何倍にもすることです。


野球チームの場合と同じく、個人個人の力を集めたよりも大きい力を発揮するシナジー効果をつくりだすのです。


・・・ということは、会社や顧客に今まで以上につくそうとするなら、管理することをおいて他にないということです。


もっと作業の手を抜いて、管理をもっとやれというのはこのためです。


だからといって必ずしも仕事をやらないようにしろというのではありません。


実務的な活動からもっと手を抜けというのです。


もっと作業から手を抜いて、部下を使って所期の成果を達成することに力を注ぐべきです。


これはいまMR転職情報などで情報を探し、これからMRになろうと決意した人にとっても言えることです。


外山正一のアメリカ行は森有礼の力で、森が明治3年わずか23歳にして最初の米国公使に任ぜられて行くとき書記として外山は随行したからです。


森は外山より1歳の先輩であるにすぎませんが、これより先イギリス留学の際2人は知り合っていたのです。


外山正一は嘉永元年(1848)旧幕臣外山忠兵衛を父として江戸小石川柳町に生れました。


幼名は捨八。


文久元年(1861)、13歳のとき蕃書調所(今で言う石川遼 英会話のようなもの)に入って英語を習っています。


蕃書調所はもと徳川幕府が文化8年(1811)、はじめて浅草天文台に設置した「蛮書和解御用」という翻訳局を安政2年(1855)、ペリー来航(1853)の後をうけて、洋学所として独立させます。


翌安政3年その洋学所を蕃書調所と改称したものです。


この蕃書調所は九段坂に設けられたもので、文久2年(1862)には一つ橋に移転して洋書調所、翌3年には開成所と改称しました。


これが明治6年東京開成学校、やがて大学南校、明治10年東京大学、明治19年帝国大学へと発展することになるわけです。


桜井役氏の『日本英語教育史稿』には、文久元年(1861)12月、外山捨八「英学世話心得」として、さらに慶応3年(1867)には外山捨八「教授手伝並出役」として外山正一がその幼名の下に出て来ます。


また慶応2年4月8日には幕府も遂に海外留学生を許します。


みずからも箕作奎吾、外山正一、林董、箕作大六(後の菊池大麓)、中村敬宇(正直)ら14名をイギリスに留学させたのです。


このとき外山正一は18歳でした。

札幌ツアーには何度も参加したことのある私ですが、夏頃にはじめて阿寒湖周辺を訪れました。


散歩コースを何時間も歩き、昼食はイワナがたくさんいる川のほとりでとりました。


イワナと私のたのしい昼食が終って、沼縁を少し行くとまた小さな川がありました。


そこに私が近づくと、それまで日向で遊んでいた2、3尾のヤマベが電光のように走って、物陰にかくれてしまいました。


みると近くに朽ちかけた山小屋の柱が立っていました。


何年か前に誰かがこの小川の岸に小屋を建てて、造材か何かをしたのでしょう。


そして今素早く物陰に隠れたヤマベの兄弟か親たちは、ここに来た人間のために釣りあげられ、すくいあげられて手痛いめにあったので、人間の影は悪魔の影としておそれているのです。


私が白ヤブサの姿を見たのは、雄阿寒岳の裾にある下沼といわれている、パンケ沼の岸でした。


そこで私は風呂敷に包んだ弁当箱を拾いました。


その晩湖畔の駅逓に泊ると、私より少し先に山越えをした木材師が熊に逢って、弁当箱を投げつけて逃げてきたという話でした。


基本的には熊の専用道になっているのですね。


いうまでもなく、ここまでたどり着くのには長い時間がかかりました。


準備段階で費やされた何年かを数に入れないにしても、海洋の法的制度を改訂するために行われた10年近くに及ぶ公式会議がありました。


そして、その改訂案でさえ、ある大国の承認をとることができなかったのです。


誰もこのような事態を予測できませんでした。


そして、海がここまで重要になったこと。


あるいは全世界の国々の海洋の利権について、合意を得ることが困難であったことについても、誰も予測できなかったのです。


第3次国連海洋法条約会議が、歴史の上でも大規模かつ長く、また複雑な会議となったことは不思議ではありません。

オスベルグが小さくなっていくにつれて、私はここで、あるいは他の海域のどこででも行われている作業と、海洋法との間にいくつかの相似があることを考え始めました。


海での作業は、下準備、共同作業、そして先を見越すことが必要となります。


これらの充分な経験なしでは、オスベルグは存在しえず、また機能し続けることもできなかったはずです。


海は、そうした過ちをけっして許してはくれないのです。


同じことが海洋法にもいえます。


国際的な下準備と共同作業なしでは、合意はけっしてありえなかったでしょう。


そして先を見越すことをしなかったら、その協定はすぐに意味のないものとなっていたかもしれません。


1958年のジュネーブ協定を例に挙げると、インクがまだ乾いてもいないうちから時代遅れのものとなってしまいました。


実際、法律というものはしばしば、技術的な進歩の速さに大きく遅れをとってしまうものですが、新たな国連海洋法条約会議は、こうした傾向をくつがえそうと試みたのです。


これはいくつかの点において、深海採鉱の問題が、会議の終わる時よりも始まった頃、はるかに切迫していたように見えたからでしたが、いざ具体的な予定表が出され始めてからもまだ、参加者たちはねばり、根気よく交渉を続けたのでした。


その結果、1982年の国連海洋法条約会議は、前の交渉とは異なり、その施行にはいる前に、時代遅れになることはなかったのです。


夕刻になり、ファー・スカイ号の後ろ姿がオスベルグ・アルファの近くに見えます。


今回は、廃棄物や、プラットホームのクルーが「ビーこと呼んでいる岸へ引き揚げる物品の回収にきたのです。


積み込みがすべて終わると、クレーンのケーブルにかこのようなものがとりつけられ、私はそれに乗り込んで数百フィート下方の船体に降りていきました。


開発は人間の利潤追求のために行われるのか、ということは、これから先も見続けていかなくてはならない問題です。


いうまでもなく、それは国際的ビジネスが、国際法の精神に追随していくかどうかが不確かだからです。


しかしおそらく、それが肝心な点ではないのかもしれません。


新しい海洋法は、新たな規則と専門的事項以上のものです。


実質的には、共有価値のある資源をどう取り扱うかということに関する、初めての大きな国際的約定なのです。


それを施行するために、広漠な海域を開発し管理する機関を、各国共同で設立しました。


それは、人類共有の利(ー軍事力や腕力にものをいわせるという考え方ではなく、結果として最強の者に最大の分け前を与えることになっても、平等の発言権をもつすべての国々の前で、公正に行われるべきであるという考え方)のためなのです。


この機関が、実際にその任に耐えるかどうかはともかくとして、各国の集団的な決意の表明は画期的なものです。


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